10月3日 陸前高田
住田基地からは自分のクルマで陸前高田ボランティアセンターに行きます。

8時ころ到着。
陸前高田は市街地が壊滅状態なので、VCは海岸から10kmほど入った山側の空き地に設営されています。

ホワイトボードには作業する際の注意書きが。
とにかく怪我をしないようにと。ボランティアに来て怪我されると“迷惑”です。

ぞくぞくとバスが到着します。
夜行便なので乗っているみなさん眠そうですw

8:20 ミーティング開始
この日は九州からバスで23時間かけて来たという団体さんがいました。凄すぎる。
あとは新潟の女子大、東京のどこかの市役所から、などなど。
個人で参加している人は少ない印象

ミーティングが終わるとマッチングです。
今日は誰がどこへ行ってどんな作業をするか、を決めます。
団体さんはあらかじめ決めてあるみたいです。
依頼票が読み上げられるので、行きたい作業に挙手をするという、初めてのボラにも分かりやすい親切なプロセス。
まずは様子見で、個人宅の草刈りとがれき除去という作業を選択しました。
ボラ作業後
被災地での初めてボランティア活動が終わって、そのあと陸前高田の街をうろうろしていました。
震災後半年経っているので、陸前高田はけっこう片付けは進行しているように見えました。
その代わりに、信じられないくらい大きな瓦礫の山があちこちに出来ていました。

目の前のこの街の光景が、網膜に結像したイメージが脳ミソでうまく処理できない、そんな感じでした。
これらから、何をどう感じ取ればよいのか、、、反応できない。
あてもなく、何かを探すでもなく、あちこち彷徨っていました。

町はずれ気仙川の西側を北上していったところの高台に、被災を免れたお寺(泉増寺)がありました。
ちょっと寄ってみようとクルマを降りると、岡崎市ナンバーを付けたカブがぽつんと停まっており、少し離れた所に父くらいの年齢のお年寄りが座っていました。愛知県人に出会えた安心感から、私は声を掛けました。
「おとうさん*1、岡崎からコレ(原付)で走って来られたんですか?」
『ん?・・・ あぁ、それは、』
少し間があって、私が何を問うたのか理解したおとうさんはこう答えました。
『支援物資として。もらったんだ』
そうか、ナンバーは発送元の自治体のものなんだ。
なんて馬鹿だ。考えてみたら愛知県からここまで900km以上ある。原付で走って来るなんて物好きは世の中にそう沢山いない。
*1:地元の方に呼びかけるとき、年齢関係なくおとうさん/おかあさんと呼ぶようになってしまった

「こんにちは。えっと、昨日、神奈川県から来たんです。お寺が見えたので」
今思えば、よそ者だということはわざわざ言う必要も無かったのだが。
それをきっかけにいろいろとお話をしてくれた。
『上の寺はな、伊達なんとか公のご夫人が子を産むときに云々・・・、』
詳細は忘れたが、要は子宝に恵まれるということのようだ。
ちなみにおとうさんがすわっていた場所は「御神体」の真ん前。御神体は女の子のアレそっくりの●●●で、ご開帳は本来33年に1度らしいので写真は撮ったけどここに載せることは控えます。

「津波はここまで来たんですね」
ごめんなさい馬鹿な質問で。来たなんてもんじゃない!って言いたいのを堪えて答えてくださった:
『あの橋からこっちにずっと、500戸の家があったんだが。1戸を除いてすべて流された。』
『息子は消防隊員だったが。亡くなった。』
遠い目をしていた。今思い出しても泣けてくる。
「おとうさんはあの日は、どこにいたんですか?」
ごめんなさい無神経な質問を。でも何か質問せずにおられなかった。
『あの大木*2のある、裏山*3にいた。津波が来て山へ登って逃げたんだ』
*2:樹齢800年の「天神の大杉」; *3:気仙成田山
「地震が来てすぐに津波が来ると判断して逃げたんですか?」
『あぁ。ここいらは津波が何度も来ている。チリ沖地震以来、防災体制はちゃんとされていて、避難訓練もちゃんとやっていたんだ。だけどそれが仇になった。』
「え? アダになった?」
思わず聞き返した
『チリ沖地震がベースで避難場所を決めていたからな、高さが足りなかった。想定以上の高さの津波が来たのでたくさんの人が亡くなった。報道で10mとか12mとか言ってるけど、そんなもんじゃなかった。』
もういっぱいいっぱいだった。あとは何を話したかよく覚えていない
ここからあとは、帰宅してから調べたこと。
泉増寺
泉増寺からの撮影
避難所
例えば陸前高田体育館。想定では2階まで海水が来ることはないとされていたそうだ。
佐藤さん
私が偶然みかけてお話をした方は佐藤直志さんと言って、Webにあちこち登場しているちょっとした有名人のようだ。いろいろ陸前高田のことを調べていたところ偶然遭遇。
5月に花見を計画したり、地域の絆を断ち切りたくないからと仮設住宅には移らず被災した自宅で生活しているそうだ。
巡り合わせとは不思議なものだ。佐藤さんは77歳で父と同い年。亡くなった息子さんは47歳、私と同い年。おまけに佐藤さんが乗ってたカブが付けてたナンバー「岡崎市」は父の生まれ故郷なのだ。
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